【コラム】気を遣う人と遣ってもらう人

 

 

 

 

 

 

結婚式の一幕にて

先日結婚式での一幕を耳にし、心に残りました。

ある結婚式の会場で、スピーチの中の一節が「聖書」からなのか「シェイクスピア」からなのかの議論になったそうです。実際はシェイクスピアの戯曲の一節だったらしいのですが、その場では「聖書」の引用であると主張していた人が押し切ったそうです。押し負けた形になったシェイクスピアと主張していた人が、後日、その場にいたシェイクスピアに詳しい人に「どうして答えを知っているのに言ってくれなかったの?」と聞いてみると、「お祝いの席でわざわざもめるようなことを言う必要がないと思って」と答えたことに、相手も納得したそうです。

 

同じ一言でも

現在のような平常とは言えない大変な時期には、総じて人の本質が見えやすくなるものです。そんな状況の時に、このような気遣いができるということは、大いに価値のあることだと思うのです。

だれしも人は自分の考えや思いを持っているものですが、「その場に合っているかどうか」という空気を読むことは、ある意味優しさであり周りへの配慮となります。そして、これからますます必要になってくるスキルだと感じています。同じ発言でもその場に適しているかどうかで効果も評価も変わるのは必然です。さきほどの結婚式の一幕が典型です。

 

不満は何も生まない

その場の状況に合わせた行動をとれる人とそうでない人は、表情にも表れていることが多いでしょう。いつも笑顔を保っている人は、周りに気を遣えることが多いでしょうし、ついつい仏頂面になってしまって自分の不満を口にしてしまう人は、自分のことで頭がいっぱいで当然周りに気を遣うどころか周りの人に常に気を遣ってもらう状況が多いのかもしれませんね。先ほど触れた様に、現在のように不安定で先行き不透明な時代では、この二極化が露骨に露わになってきているように感じていますが、皆さんはいかがでしょうか。

 

常に不満に苛まれている人のほとんどは、自分の意見が正しいという大前提があり、その考えに固執した挙げ句、周りや相手に気を遣わせてしまっているのではないでしょうか。

最近ニュースで取り上げられる「あおり運転」もこの最たる例だと思っています。

しかし、それぞれ不満を言い出したらきりがありません。何より不満という形のままならおそらく建設的に話は前には進まないでしょう。それどころか、周りも負の感情に巻き込んでしまい収集のつかない大変な状況になりかねません。

 

負のスパイラルの根源

ではどうして、人は時にこのような負のスパイラルに陥ってしまうのか。そんな状況に共通していることがあります。それは「わたしは大変なんだ。」「わたしほど不幸な人はいない」と、自分の心配で頭がいっぱいになってしまう時です。これは一番の不幸だと言えます。

我流ですが、自分の苦しみを忘れられる時というのがあります。それは、他人の苦しみを心配している時だと私は思っています。

 

不満に苛まれている時には本人は苦しいばかり、しかし実際には、そのような言葉を口にする彼らの負の言動につきあい、気を遣ってくれている人が周りにはたくさんいるのです。この状況を幸せと思うか思わないか。思えば幸せに浸れますが、思わなければ不満が溜まるのかもしれません。誰かに置換えて、客観的に自分を見てみるとわかりやすいかもしれませんね。

 

自分を客観視することの簡単なやり方の一つとしては、もう一人の自分を作ってみることをオススメします。自分の気持ちが感情に負けてしまいそうになったとき、直ぐさまもう一人の自分に乗り移ってください。これが客観視です。

「あいつ大丈夫かな?」と心配してあげてください。自分ではない自分なので、冷静にチェックすることができますよ。

 

現代は、いつ何時どんなストレスを受けるかわかりません。

せめて自分からは負のスパイラルを発信しないと決め、気を遣われる人から脱出しましょう。そうすれば、自分の周りにはプラスの気持ちと笑顔がたくさん集まってくること請け合いです。良かったらお試しくださいね。

株式会社エルシーアール 管理部 課長 福田 典子